The miracle stories on the Radio
Fヨコ大好きっ子でした♪

ラジオリスナーでしたか?
私、神奈川県で生まれ育ったので、FMヨコハマ(以下、Fヨコ)だけは知っていて、その中でブリーズは大学生くらいのとき通学時間に聴いていました。Fヨコは長い間リスナーで、それ以外のラジオ局を聴こうという気があんまりなかったんです。今の仕事をするようになって他局のオーディションを受けるときに、どうやって他の局を聴くのか、どんな番組があるかというのを知らないくらいだったので…、完全にFヨコリスナーだったと思いますね。
家にラジオはありましたか?
ラジオがお家にあって、お掃除するときとかに、いろんな曲が聴けるっていうのが楽しかったのですね。土曜日のランキングの番組をつけながら掃除をしたり、朝、通学するときに友達の車の中で流してもらって聴いたりしていました。
当時、ブリーズのパーソナリティは池田恭子さんでした?
北島美穂さんでした。それこそ、Fヨコのお仕事をできるようになって半年もしないときに、Fヨコの“DJ飲み会”というのに参加したんです。でも、DJの顔ってなかなかわからないじゃないですか?! それで隣りに座った方がまさかの北島美穂さんで(笑)。最初わからなくって「はじめまして」と挨拶したら美穂さんで、すっごい嬉しかった!それはもうリスナーの気持ちで嬉しかったのを覚えてますね。就職試験でニッポン放送とか受けたんですけど、そのときにも好きなDJの名前は「北島美穂さん」と書いてました。ま、それしか知らなかったっていう(笑)。
どうしてラジオの仕事をしたいと思うようになったんですか?
私、しゃべることというか、伝えることが好きなんです。30歳くらいまでは、テレビの仕事しかやってなかったんですけど、伝えることがしたいなと思ったときに、別にテレビじゃなくていいなと思って。むしろ、ラジオの方が好きに話せたりもするし、伝えやすいのかなと考えて、”ラジオやりたいな…”となんとなく思うようになって。正直な話、年齢的なこともふくめて末永く伝える仕事をしたいと考えたときにテレビに固執することはないかなと。“伝える”ということに関しては、映像がある分テレビも魅力的ですけど、”言葉で表現する”ということでは、ラジオの方がいっぱい詰まっていると思います。そんな風に考えて“ラジオをやりたい”という気持ちをもつようになりました。
最初に担当した番組について教えてください
最初は、REDS WAVEという浦和のコミュニティ放送のレッズの番組で、ひたすら1時間か2時間くらい一人でしゃべるという番組でした。ディレクターさんは一人。私がレッズの取材に行って、今日の選手はどうだったこうだったとか、レッズファンの方にスタジオに来ていただいて、いろいろお話を伺ったり…というのをやっていました。もともとサッカーがすごく好きだったのでやりやすかったですし、時間が沢山あって“フリートークを!”と言われても困らなかったんですよね。だからなんとなくゆるい感じで楽しんで2年間やって…。
番組は週一回だったんですか?
最初は週二回です。でもかなりスケジュールが大変だったので、事務所が週一回にして。もうちょっとラジオに本腰入れていきたいなと思ったときに、週二回で取材があったりして、なかなか他のお仕事とかもしづらかったり、ちょっと自由がきかなかったので、思い切って辞めたんです。そうしたらFヨコのお仕事が決まったんです!MORNING STEPSの”YOKOHAMA DELIGHT”から始まりました。
吉村民さんinterview ①

テレ ビからラジオの世界へ。リスナーでもあった大好きなFMヨコハマの番組を担当することになりますが、2年間は苦労の連続…?!続いては、担当した番組のこと、リスナーとのふれあいについて伺います。