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忘れえぬリスナーたちとの出会い…
 

それでは高校を卒業したら「手に職だなあ」と思って、

事務所に入ったわけですね。

まあ、一応大学行けというので、大学行きながら事務所に所属しました。事務所の練習生のようなかんじで2年間勉強して。普通に大手の事務所を受けに行ったら、箸にも棒にもかからない、というか、みんなすごくやって来た人たちだったんです。“子役やってました”とか“他の事務所で基礎を学んできました”というそんな人たちばっかりで。そりゃあ、国語の教科書読みたいレベルの人間はもう太刀打ちできない。台本を渡されて、初見で「はい、お願いします」みたいなかんじですから。これはだめだと。基礎を勉強しないとお話にならないなと。それで基礎の勉強を始めました。事務所でスクールをやっているところがあったので、そこの門を叩いてスクールで2年間学んで所属のオーディションを受けて合格して。その事務所からエフ横のオファーが来て、という流れですね。

 

事務所の所属になったのは、いつですか?

所属した事務所に行ったのは21歳。23歳の6月に所属になって、23歳の10月1日にブリーズにつくことになりました。

 

大友海渡(おおともかいと)くん時代は、そこから2000年の3月末まで?

1996年から2000年までです。北島さんが2000年の4月からなので。

 

レポートは、最初から一人で…?

レポーターの仕事が決まって、本番前の1週間か2週間前に、先輩レポーターについて、勉強するかんじで1日まわりました。レポートの初日は、マネージャーが付き添ってくれたんだけど、もともと一人でやるものだからと、現場には来てくれたものの、“じゃあ、私はカフェで飲んでるから”と放りだされて。最初から一人で、人を探してリクエストとって、話すネタ探して、というかんじですね。

 

最初のレポートの場所は…

関内駅の改札のそばのところ。そこから第一声をしゃべったんです。今はない公衆電話でやりましたね。

 

初めて出会ったリスナーのことを覚えてます?

いちばん最初に出会ったリスナーは、大船観音に来てくれた女性の方だと思うんですよね。始めて2日目か3日目くらいだったかな。たぶん彼女が一番最初に会いに来てくれたリスナーだと思うんですよ。うろ覚えなんですけれど。今でも、たまーに来てくれますよ、1年に1回あるかないかくらいだけど。

藤田優一さんinterview ②

お互いに年を重ねていますよね…。

子どもだったのが、学生になり、就職し、結婚し、みたいな。それぞれ人生を旅立っていった人もいますし、生まれた人もいますし。そういう意味ではすごく印象に残っているのは、インタビューで何度か話したことがあるんだけど…。

 

お母さんが会いに来て、息子さんは病気か事故で寝たきりで動くことができない。で、ラジオを楽しみに聴いていて、特に藤田のレポートを楽しみに聴いていると。動けないからその場所には行けないんだけど、地図を広げて、“ああ、藤田くん、今ここにいるね。ここに来ているんだね”、“あの公園、そんなふうに緑があるんだね”とお母さんと話していて。たまたまその方のご自宅の近くにレポートに行ったことがあって、お母さんがかわりに来て、実は息子が楽しみにしているんです、ステッカーにサインいただけませんか、ということでサインしました。ああ、そういう人も聴いているんだなあと。漠然と、仕事している人や家で家事をしている人ばかりが聴いていると思っていたんだけど、そっかそうだよな、本当に幅広い人、例えば目の不自由な方や、病気や事故で不本意に動けなくなってしまって、でも楽しみに聴いてくれる。ああ、そういう人たちに聴いてもらって、季節感や空気や風を感じてもらえている。そういうことを忘れないようにしようって思って、すごく印象に残っています。

 

あとは、実際にお会いした方ではなくて、お手紙をもらったおじいちゃんのリスナーで、僕のことが孫みたいなかんじだと。身寄りがないおじいちゃんだったのかもしれない、もしかしたら奥さんに先立たれて子どもたちは独立したのか、それとも結婚せず一人だったのかそこまで覚えていないんだけど。ひとり暮らしをしていて、話すことがほとんどない、話す人がほとんどいない。一か月でしゃべったのは、コンビニやスーパーでお金を渡してお釣りを受け取るときの会話くらいだ、とそんな人が僕のレポートを聴いていて。レポートを始めた最初のころだと思うんだけど、いろいろ失敗したりまだまだ素人感が抜けないのを聴いて、「しっかりしろ、頑張れ」と自分の孫ががんばっているような気持ちで。で、うまくなっていくのを聴いて「嬉しくなった、成長したね。そういう思いで聴いている人もいるよ」というお手紙をもらったことがあって。いろんな人がいるなあと思う。たかがラジオ、されどラジオじゃないけれど、誰かの支えになっているんだとしたら、ありがたいし、やっている甲斐があるなあ、頑張れるなあと。

 

最近だと、つい先週、目が悪くなってしまった女の子が、杖をついて来てくれた。後天的に目が悪くなって見えなくなってしまったそうですが、もしかするとその駅のそばでマッサージの勉強をしているのかな。“藤田さんにどうしても会いたくて”というので、わざわざ来てくださって、「写真は見ることができないので、声を録ってもいいですか?」と。僕がレポートしている横で、彼女が携帯をかまえて録音していました…。

ありがたい。そういう人の生きる勇気になっているのかなって。

 

「声を録っていいですか」っていうのは初めて聞きました…(涙)。地図を広げて…っていうリスナーさん、私も覚えてます!まだファックスの時代だったよね。

本人とは会っていないけど、すごく心に残っているなあ…。

少しでもそういう人たちの支えになっているとしたら、すごくやっている意義があると思う。寒い朝とか行きたくない日もありますよ。体調や機嫌が悪い時も20年やっていればありますよ、行きたくないなあなんて。でもそれはこっちの都合であって、楽しみに聴いている人、レポートを聴いてその日一日がんばれるという人たちがいるということを考えると、自分のそういうことはささいなことだなあと思って。だから、なるべく休まず、毎日変わらず声を届けたいと思っています。

 

東日本大震災の時に、ブリーズの北島さんの声もそうだけど、「はーい藤田です」って声が聴こえて安心したっていう人がいるんですよね。後から聞いて、そうなんだって驚いて。震災の3月11日、神奈川も大きく揺れて、その夜の時間帯に臨時にレポート入れてくれって言われたんです。その日、僕、厚木でイベントのレポートをやっていて、ジャンケン大会とかやっていて、帰れなくなって。そこで厚木から状況をレポートしてくれと。でもどういうふうに放送に出たらいいんだろう、「はーい!」なんて能天気に出るのも…と思いながら、ちょっとややおさえ気味に「はい藤田です」というかんじで出て。そしたら、局の方に電話がかかってきて、“すごくほっとしました”という声があったそうで。だから、そういうふうに毎日聴いているものというのは、非日常になった時に、すごく勇気付けられる存在でもあるんだなって思いました。なのでお役御免となるその日まで、自分の体が動かなくなるその日まで、変わらず声をお届けできたらいいなあと思うようになりましたね。

街角レポーター、藤田優一くんに「仕事の七つ道具は?」と聞いたところ出てきたのは、神奈川の地図!使い込んだ跡がページのあちこちに。藤田くんが行ったことがいないところはまだあるの~?! 続いては、震災を通して感じたこと、思ったことについて伺います。

 

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