The miracle stories on the Radio
~ ラジオの現実に直面。
挫折を味わった日々 ~
栗原治久さんinterview ④

「ウィナーワンダーランド」の後は、レギュラー番組が始まったんですか?
栗: 大抜擢で、当時Fヨコがハマラジを作ったとき、夕方の「ハマラジ・ナイト」(月~金)という番組に1年半。そこで壁にぶつかってるんですよ。ただのオタクと日本の現実っていうか。上手に人とお話ししてなんぼという。ただの生意気なDJで、ゲストが来ても会話が下手で、現実の壁にぶちあたるんですね。1年半で番組おろされちゃって。当時の編成部長さんが抜擢してくれたんだけど、彼が僕を切るということになって…。そこから挫折の時代がきて、日曜の30分番組とかが何年か続いて少し回復したのが、98年くらいの「ウィークエンドリクエスト」。Fヨコが初めて、毎週の公開放送を作るのに僕が起用されたんですよ。当時、Iさんがプロデューサーで。Iさんも立教ですからね。
実は立教ラインすごいですね。
栗: そうなんですよね、当時、立教の人がやたら多かったんですよ。
そうなんですね。
栗: 公開放送ばっかりやる番組ってことは、完全に僕が目指してきた世界とは真逆の世界観なんですよ。前にお客さんがいて、デパートの軒先とかで、ゲストが来てお話ししますよね?! ゲストがJ-popのアーティストとか。僕は洋楽が憧れですから興味ないんですよ、全然乗らないの。どうでもいいっていう感じで…。しかもお客さん相手じゃないですか。曲と曲の間にしゃべるっていうことはなくて、今のじゅんごくんみたいなことをやるわけですよ。そのときにどうしていいかわからなくて路頭に迷った時に、Iさんが僕をさとしたんですよね。「お前がやりたいことは100もわかっているけど、今はそうじゃないだろ」って。結構いいこと言ってくれたんですよ。今はただの飲み友達みたいになってますけど(笑)。「自分がやりたいことが本丸だとするなら、人間は真ん中を突き進むのではなくて、そのまわりの畑を耕しなさい。まだ生きていない土を掘り起こして周りを攻めて攻め続けていると、いつかそのまわりが真ん中になっていることがある、だからまわりをやりなさい。しばらくやりたいことは我慢しろ」と言われて。押阪さんにも、その時距離は離れていましたけど「簡単だよ。お前が偉くなったらなんでもできるから、偉くなるまで封印しろ」って言われて。奇しくも2人の先輩にそうさとされて、それで今度は意地になってトークを学んだんですよ。
いよいよ8番目、最後のフリートークですね(笑)
栗: そうですよ(笑)。ついにフリートークを本気で勉強しようと思って勉強しまくりましたね。落語の本を買ったりとか。立川談志さんとか、島田紳助さんとか、日本でしゃべりがたけているという人の本とか指南書とか処世術とかを徹底的に学んで、落語を見に行ったりとか。それで、お客さんから笑いをとるものはどういうものか、それもまたオタクだから紙に書いたりして、“フリ・オチ・フォロー”とか、そういうお笑いの技術とかをやったりして。笑われるなら笑わせろとか、自分が先に笑ったらだめとか。その日の公開放送の原稿に、今日のテーマはこれとか書いたりして。「今日は絶対僕から笑わない」とか書いたりしてそればっかりやってみたりして。
そうこうしているうちにだんだん会得して?
栗: そうなんですよ。お客さんを笑わせるパターンがわかってきたんですよ。
すごいですね。
栗: まあ、自分ではすごいと思わないけど、わかってきたらだんだん楽しくなってきたんですよね。それで、公開放送で意地になって誰よりも面白い公開放送の司会者になろうと思って。わかるようになってきたから公開放送をもっと成熟させようと思って、今度は曲がかかっているときにもずっとしゃべることにしたんですよ。みんなで黙って聴いているのも気持ち悪いから、それを今度は逆にスタッフを説得して。ずっとしゃべってしゃべり倒して、じゃんけん大会とかやるようにして。そのうち、そうすると仕事が増えてきたんですよね。お客さんがリピーターになって違う会場にも来てくれて。そうやって今度はようやく空想のDJのラジオの世界じゃなくて、目の前にいるお客さんやお金を出すクライアントを楽しませることが、自分の商売、仕事につながるということがやっとわかってきたんですよ。それが30歳くらいですかね。
すごい努力家なんですね。
栗: 努力家かな、好きなだけじゃないですか。単純に(笑)


深夜3時の公開放送が教えてくれたこと
栗原さんにとって、リスナーとのコミュニケーションの中で忘れられない出来事というと…。
栗: 2年前にやった24時間ラジオかな。24時間ずっと出るっていう番組をやりたくって、それは実はFMヨコハマが産業貿易ビルからランドマークに引っ越すときに、1993年10月に、いわゆる”第二の開局”というテーマでハマラジ誕生の特番で、矢口清治さんが24時間ラジオをやったんですよ。僕、Fヨコでは矢口さんを目標にしてたので、それを見たり聴いたりして、ぺーぺーのDJとしてね、すごくうらやましかったんですよね。“あぁ、いいなぁ。24時間も一人でやってるなんて、もう夢のまた夢だなぁ”。それでいつか僕がやりたいと思ってたんです。そしたら2年前に営業のSさんが「栗原さんやりましょうよ!それ」って言ってくれて。ところがこれまでの経緯がありますから、僕は「スタジオで24時間じゃなくて、外で24時間やりましょう」と言ったんです。じゃあ、誰もが24時間来られる高速道路のパーキングでやりましょう!となって、首都高にスポンサーになってもらって、24時間放送を大黒パーキングでやったんです。これがやっぱり面白い試みでしたね。
寝ずに放送したわけですよね?
栗: ぜんぜんできると思いましたよ。やっぱり好きなことだから。イメージ通りだった。辛くもなかったし。それで、リスナーとのコミュニケーションで印象的だったのは、朝始まって朝終わるんですけど、20時間くらいたって、ラストの夜中の2時から6時が最後のセクションだったんです。それまでは24時間とはいえ、ちょっと休憩があったりパケがあったりしたんですけど、最後のセクションは、“ずっと生放送で朝を迎えて終わる”といういかにもSさんらしい企画で、 “じゃあ、受けてたちます!”みたいな感じで(笑)。で、そのときに雨が降っていて。
まあ、24時間来られるから道路アクセスのある高速のパーキングにしたものの、基本的にお金が払わないと高速道路には乗れないじゃないですか?! だからハードルがちょっと上がるんですよね。で、大黒パーキングの夜中の2時、3時の雨が降っている公開放送の現場に、果たしてお客さんがいるんだろうかと思って、控え室からDJブースの前にぱっと行ったら、20人くらいいたんですよね。最初は5人くらいかなぁ?! で、ぽろぽろっと集まってきて。“あぁ、来てくれたんだ…”と思ったときは、ちょっとラジオの価値観が変わったんですよね。
要は、ひとりでも聴いてくれる人がいたらDJはやるべきだと思ったんですよね。究極のラジオDJの意義ってなんだろうと思ったときに、一人でもリスナーが、つまり自分を必要としてくれる人、自分を共有したいと思ってくれる人が一人でもいたら、そこには意義があると思ったんです。だからレーティングじゃない!と思った(笑)。
レーティングとか人数とか関係ないなと初めて思えたのは、2年前の24時間ラジオの深夜3時かなぁ。
今、栗原さんは、横浜お住まいですが、横浜にはいつからですか。
栗: DJになってからわりとすぐですよ。
WINNERになってから?(笑)
栗: WINNERになってから(笑)。やっぱりローカリズムがあったから。“街がわかってこそ、その街のDJだ”という極意はやっぱりあったし。逆に言うと、みんな東京に住んでるじゃないですか、今も。だから、ある程度DJが上手くて、地元にくわしければ絶対勝てると思ったから。マーケティングですね(笑)
頭いいんですね(笑)すごいなぁ。
栗: 商売人の息子ですからね。だって。