The miracle stories on the Radio
西向幸三さんinterview ①
私たち最後のラジオ世代
かもしれません

ラジオとの出会いについて教えてください。
西向: ラジオとの出会いなんですけどね、私たち最後のラジオ世代だとは思うんですけども、もちろん好き。まわりで、ラジオが好きな人たちが深夜番組を聴いて翌日学校で話すという、小中高とそういう雰囲気があったんですけど、だからといって私はそこまでラジオが好きだったわけじゃないですね。どっちかというとテレビっ子だった。まあ、暗い幼少期を送っていたので、アニメに逃げていたと(笑)アニメと第二次お笑いブームがあったので、漫才と落語ですね。そういうのが好きなのでよく見てたんですね。あとはスポーツだったらなんでも見るような子でした。とにかくテレビばっかり見ていて。…とは言いつつ、まわりが聴いているから、中学の頃とか布団にもぐりこんで深夜番組を聴いていたりとか。あと高校の頃に、FM沖縄でポップンロールステーションという番組があって、すごい人気番組で。トライリンガルって言っていいんでしょうね。日本語と英語とうちなーぐちを混ぜて使う。ケン&マスミ、ケンマスといわれてたんですけど、このお二人のコンビと、それからロバート&シェリー、ロバシェリのお二人のコンビが本当に大人気で。高校の頃は、ケンマスは普通に聴いてましたね。沖縄の場合だと「車の免許を取ったらFM沖縄に遊びに来よう」みたいな風潮もあったので、特にこれを好きというわけではなかったんですけど、普通にラジオとは触れ合ってた感じはしますね。
今、ちょっとびっくりしたんですが、沖縄では、“免許を取ったらFM沖縄に遊びに行こう”というのがとってもポピュラーなんですか?
西向: そうなんですよ。今どうかわからないですけど(笑)。僕らが若い頃は普通にあって、なんとなーくそのポップンロールステーションを見に来たり、ハッピーアイランドという昼間の長寿番組がありますが、それを見に来たりとか。今のこの建物じゃなくて、旧社屋のときですね。その時には、みんな普通に遊びに来てました。
その番組は、音楽番組だったんですか?
西向: ポップンロールステーションは、トークがメインにはなっていたんです。日本語と英語を交えて、そこにうちなーぐちが入ってくる。なんだろう、ギャップっていうのかな、それが受けていて。もちろんお笑いの要素もたくさんあったし、プラス音楽もすごくいい音楽をかけてたんですよ。あの頃はまだ洋楽全盛期でもありましたし、洋楽中心で。やっぱり憧れるじゃないですか?単純に、バイリンガルがかっこよく曲紹介をして、いい洋楽を聴いているっていう。あの頃、僕らもなんとなーく意味わかんないけど、洋楽大好きだったという時代ですからね。そういう意味ではすごくスタイリッシュで、ちょっといなたい感じもあるというか。うーん…バタ臭い感じもあるというか、ちょうど沖縄にぴったりな、まさに沖縄でしか作れない番組だったと思うので、やっぱり普通にみんな聴いていましたね。
そこから、ラジオをなりわいに…というのはなにかきっかけがあったんですか?
西向: 先ほどの話に戻るんですけど、私は幼少期に非常に貧しい生活をしていたので、ま、大学には行けないなぁと思っていて。じゃあ、高校は手に職をつけようと思って、工業高校に進んだんですよ。ところが、自分が文系だというのをすっかり忘れていましてね(笑)…。情報技術の学科だったんですけど、入って一ヶ月でもうダメだこりゃと。で、辞める勇気もないしどうしようと思って。高校卒業の証書だけ欲しいと、最低限ぎりぎりで卒業しようと思ったんで。後はひたすら本を読んでたんですね。本当に先生からするとすごく嫌な子ですけど、授業は聞かずに、本ばっかり隠れて読んで、最低限赤点採らずに進級していくという…姑息な子だったんですよ(笑)。高校3年生のときに、工業高校ですから、学校側が仕事を斡旋するわけですよ。バブルの最後だったので、それこそ情報技術、システムエンジニアというのは、高卒でも欲しいという企業がたくさんあったんですけど。もう私はそこには進めないので、「先生、私には職業を斡旋しないでください」と。それも嫌味言われたんですけど。「自分で探しますから」という話をしていました。ただ、高校のころに本を読んでいたということもあって、ジャーナリズムに芽生えたというか、そういう系の本を図書館からいろいろ読んでいたので。あと私たちが高2か高3か、いわゆるベルリンの壁が崩壊して、それから天安門事件もあった。世界が激動的に動いていく時代だったので、それを自分の目で見たいな、ということがあって、ジャーナリストの仕事というのに漠然とした憧れがあったんです。ただ、いまさら大学にも行けないし、お金もないし、学費もね。じゃあどうしようか、と思ってたときに、たまたま情報誌で、ラジオ沖縄のディスクジョッキーの募集があったんですよ。メディアであるならば、まずとっかかりとしてそういうところもいいんじゃないかと思って、18のときに受けたのがはじまりですね。今の話を聞いててもわかるようにね、子憎たらしいガキなんで、口だけ達者な18歳、世の中斜めに見ているみたいな子だったんですけど。そのときにメインの男性は別に選ばれて、メインの女性も選ばれて、ただ「ちょっとこいつ、くそ生意気で変なやつだな」というのが当時のディレクターにひっかかったらしくて。予定はなかったんですけど、別の番組のアシスタントで使ってみようかな、ということで、補欠合格みたいな感じですね。それがラジオパーソナリティとしてのスタート。18のときですね。
その番組は、週に一回…?
西向 週に二回くらいだったと思いますけどね。だから、アルバイト代も大した金額にならないので、生活をしなきゃいけないから、ま、本が好きだから本屋でバイトをしていて、そのときにいろいろ本を読んで。あとはラジオの仕事をしていましたね。
その番組はどういう番組だったんですか?
西向 えっと、某通信会社のもので、いわゆる10代をターゲットにした22時くらいから20分の番組。メインの女性パーソナリティがいて、お便りを紹介して、時々、声をつないだりとか…、典型的な10代、ティーンエイジャー向けの番組でしたね。それを1年半くらいやって、ナイターオフのラジオカーもやって。ラジオカーって、ご存知のとおり、いい勉強になるので。特に沖縄の場合は、外に出たら全部自分でやらなきゃいけないので。取材先も決めなきゃいけないし、しゃべる言葉、ネタも全部自分で考えなきゃいけないし、あれが非常にいい経験でしたね。もう25年前ですけど、厳しかったですからね。なんか徒弟性みたいな(笑)。もう、ディレクター、鬼みたいな人たちばっかりだったので、めちゃめちゃ厳しかったです。ただそれは非常にいい意味で鍛えられて、今でも当時のディレクターに本当に感謝していますね。
そのラジオカーは毎日だったんですか?
西向 週2、3回じゃないですか。で、まあそれをやりながら、また新しい番組も19ぐらいのときに立ち上がって、それも10代向けの番組で、そのDJをやって…。で、そうこうしているうちに母が他界したんですね。二十歳のころですけど。実は彼女、私が高校生のころから乳がんでだめだって言われていたのが、がんばって二十歳頃までがんばってくれたんですけど。この母が、ちょうど私の成人式の3日前に他界して…、なんでこんなタイミングなんだよって思いながらもね。ただ、母が亡くなったときに「あれ?なにやってるんだろう」と思って。本来であればジャーナリズムの仕事、もちろんラジオの仕事は楽しかったんですけど、ジャーナリズムの仕事と同時に、やっぱり世界を見たいという気持ちがすごく強かったので。うーん…と思って、ラジオの仕事は楽しいんですけど、すみません、ちょっと外見たいんで、ということで辞めて。で、お金はないので貯金しないといけない。とにかくないので、東京行って半年くらい夜の仕事、肉体労働。運送業で昼間集めた荷物を深夜仕分けするという…給料いいんでね。それをやって、半年くらいで100万円くらい貯めて、カナダにワーキングホリティに行って、いろんなことを経験させていただいて、で帰ってきて、もう一回このラジオの仕事しようかなと思ったら、ラジオ沖縄に仕事がなくて。それで一度だけお会いしたことがあるFM沖縄の先輩に声かけて「仕事ないですか?」と。そしたら「ラジオカーの仕事があるから」ということで、ラジオカーを。実はちょっと前後してしまいますが、帰ってきて、英語もずっと習いたかったので基地の中にある大学に僕は入学しているんです。県内在住一年以上の方が対象になると思うんですが、基地の中にある4つ、5つくらいの大学を受けられる。県が取りまとめているんですけど、それで基地の中の大学に入っているんですよ、メリーランド大学。で、本当はもっと旅したかったんですけど、一度旅してしまう人は、ずっと旅人になってしまうので(笑)。本当は旅したかったんですけど、英語を勉強しようと思ったら、そこ受かったので、じゃあ勉強できるならっていうんで沖縄残って。沖縄残るんだったら、またラジオの仕事がしたいと思って、さっきの流れになったんですけど。で、基地の中の大学通いながら、ラジオカーの仕事。しゃべりもやってドライバーもやって、あとはDJもいろいろやって、そうこうするうちに、じゃあ社員になるか?という話があって。アメリカの大学ですけど、短大卒業の資格もとったので、入社です。はい。