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松澤良昌さんinterview ①

      貴重な資料を
見せていただきました!

(松) 『土曜ワイド』という僕がプロデューサーをやっていた番組の「土曜ワイド新聞」をあなたに見せたことあった?

 

― ないと思います。

 

(松) あれ、朝9時から午後5時くらいまでの放送だったんだよね。僕がやったのは、永六輔さんが引退しちゃって、三國一朗さん、岩崎直子さんがやっていた時。で、朝から番組が始まるじゃない、それをばーっと活字化してね、夕方には4ページの新聞を作っちゃうわけ。それを、950[1](レポートなどを行うTBSの中継車)を都内3ヶ所にやって、“○○公園○○公園に950が行ってます。そこで配ります“と言って、そこで500部ずつば~っと配っちゃうの。

(※[1] 950とは、レポートなどを行うTBSの中継車だったTBS950のこと。1978年に周波数が変更となり、以後、TBS954として親しまれている)

 

― すごいですね。活字に起こす専門部隊がいたんですか?

(松) それはね、九州大学の新聞部の部長をやってたという男が僕の下にディレクターでいたわけ。彼が新聞作る専門、実に見事。

 

― 本番中にやっちゃうんですよね?

(松) そう。例えば、“都電荒川線”なんて特集やるでしょ?朝から晩まで。それで、事前に荒川線の写真を撮ったりなんかしてるわけ。事前に半分くらいできちゃってるんだよね。あの新聞っていうのは、空前絶後だよね。

 

― その後、そういうことしている番組ってないんじゃないですか?

(松) 絶対ないでしょうね。できないでしょうね。あれは、今、見ても面白い。

ラジオには、“パーソナリティラジオ”と純粋に“音楽ラジオ”ってあるじゃない。で、“音楽

ラジオ“というのはあんまり日本にはないんだよね。レーティングを取るには、”パーソナリ

ティラジオ“が手っ取り早く取れるじゃない。でもね、音楽でね、その音楽がみんなが好き

だと、じわじわじわじわとレーティングが上がってくるんですよ。アメリカのラジオって、“音楽ラジオ”なんですよ。15分にトークがちょっとあるくらい。

『週刊 土曜ワイドラジオTOKYO』(昭和51年11月27日発行)4面あり。キャスターやレポーターだけでなく、スタッフによる記事もあり、皆が参加して紙面づくりが行われていたようです。真ん中の写真の左上のヌード写真は、毒蝮三太夫さんが撮影したもの。モデルはあき竹城さん!(セクシ~っ)あらためて今見ると「番組ブログ」のはしりだったと思えます。楽しい現場だったことが伝わってくる紙面です。

戦争中、ラジオから聴こえてきたあるメロディ…

― 松澤さん、生年月日から教えてもらえますか?

(松) 1932年3月10日(昭和7年)。

 

― 子供のころには、もうラジオはありましたよね?

(松) ありましたよ。だって町に“ラジオ屋”っていう商売があったもの。

 

― なんですか、それ?

(松) ラジオを売ってるんですよ。で、故障したとき、そこ持っていって直してもらう

んですよ。ラジオ屋さん。

 

― 当時は、ラジオは一家に一台ですか?

(松) 一家に一台。それもたんすの上に箱型のラジオ。ダイヤルがついてて、左側が

スピーカーで、下にボリュームとスイッチがついてる。知らない?

 

― 我が家にあったのは、大きな家具式のでした。

(松) あー、違う違う、その前。

 

― ラジオ好きなお子さんだったんですか?

(松) 立ち上がってラジオに耳を近づけて聴いてたね。でね、一番印象強いのは戦争中に「前線へ送る夕(ゆうべ)」(日本放送協会:現NHK  昭和18年1月~放送)という

番組があったんですよ。週にいっぺん。あれ、30分か1時間かな。内容はどうってこと

ない、落語をやったりね、浪花節やったり、歌を歌ったり。ただテーマ音楽がすごかった。“ハイケンスのセレナーデ“。これが、あの戦争中にね、「なんだ、これは!こんな別の世界があるのか」と思ったのね。”ハイケンスのセレナーデ“を聴いて、僕ね、もうびっくりしたわけ。当時は軍国時代でしょ。音楽といえば軍歌ばかりでしょ。でも、本当は別の世界があるなと思ったわけ。その時はそれで終わったんだけど、ず~っと”ハイケンスのセレナーデ“が頭のなかに残っていたわけ。どうも、同じ世代の子どもだった我々はね、頭に残っているらしいの。『少年時代』という映画があったじゃない。篠田正浩監督の。ちょうど我々みたいな世代の少年が富山に疎開して、そこでおじさんの家に住むのね。その映画の中で、フラッシュバックで子どもの頃のシーンになると、“ハイケンスのセレナーデ”が

入っているわけ。あ、篠田監督も影響を受けているんだなと思った。で、今から10年

くらい前に“ハイケンスのセレナーデ”とインターネットで検索すると、ばーっと出てきた

わけ。最近は、その頃の思い出を持っている人はいないですよね。ほとんど出てこない。僕はね“ハイケンスのセレナーデ”で30分か1時間のドキュメントを作りたいと思ってね、ラジオ深夜便のプロデューサーに言ったらね、「一応うちの局で話してみましたけど、

若いディレクターで興味をもった人は一人もいません」というんだよね。それはそうだよね。俺がしゃべっている相手の人も知らないんだから。でも、これ一発作るとね、放送史上に残る番組ができるなと僕は思ってるわけ。なぜ、“ハイケンスのセレナーデ”が、その頃外国の音楽だったのに使えたかというとナチスの傘下にいた作曲者なの。で、終戦のときに、ナチズムに参加したというので“ハイケンスのセレナーデ”の作曲者は捕まっちゃった

わけ。で、牢獄で自殺しちゃった。でも名曲は名曲なんだよね。それが僕がラジオに惹きつけられた最初。

 

― おいくつの頃ですか?

(松) 小学校6年生頃。

 

 

ハイケンスのセレナーデ

― 番組のパーソナリティとかは覚えていないんですか?

(松) ぜんぜん覚えてない。前テーマだけ。

そういえば、終戦後、ラジオがなかったじゃない?焼けちゃって。そうしたらね、うちのおじさんで、えらい頭がきく人がね、古道具屋に鳴らない古いラジオがいっぱいあったの。二束三文で売っているわけ。それをぜんぶ持ってきてね。「よっちゃん、頼むから直してくれない?」とこう言うわけ。で、真空管変えたりなんかして直して、倍から3倍でどんどん売っちゃうの。その時は、ずいぶんラジオ直したね。しばらくたつと、“五球スーパー”が流行りだした。

“五球スーパー”って知ってる?

 

― 五球スーパー?

(松) 真空管が5つあるわけ、で、スーパーラジオなの。五球スーパーはね、昭和20

年代のラジオの代名詞です。僕、ラジオ作れたから、いろんな人が”五球スーパー作って

くれ”というわけ。で、箱やなんかを一緒に買いにいってね、“一晩、俺と一緒につきあう!”って。徹夜でやって、朝にはもうできちゃうの。そうすると千円くれるわけ。

その頃、ずいぶん儲けたな、それで。

 

― それは、大学生のころですか?

(松) そう、大学生のころ。早稲田に行きながら。電気通信科だからさ。で、早稲田では放送研究会に入ってた。放送研究会っていうのは、将来、アナウンサーになりたい連中がいっぱいいるわけ。それから、役者になりたい、ラジオドラマ専門のやつもいる。あとは、ミキシング。早慶戦の時にPAを操作したりする技術屋。僕は、効果音を作る効果部にいたの。4、5人いたかな? で、雨の音作ったり、なだれの音を作ったりなんかして…。全部生音ですよ。そういうのをやってたわけ。4年の時には、日本テレビで効果のアルバイトしてました。そうなると、就職する先は理工系のメーカーじゃなくて、放送局しかないわけ。その頃、ラジオ東京が募集してたんだよ。僕は、新入社員二期生。昭和29年(1954年)にラジオ東京に技術で入りました。

松澤さん、いろいろと貴重な資料をご用意してくださっていました。上記の「土曜ワイド新聞」以外にも、アメリカに出張に行ったときに録音した各ラジオ局のエアチェックのカセットテープ(!)など。さて、TBSラジオに入社した松澤さん。

いったいどんな番組を作ったのでしょう? 

 

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