The miracle stories on the Radio
塾通いの車内で
ラジオを聴いていた少年時代
ラジオ好きな子どもでしたか?
栗: そうですね。僕らの世代は受験勉強しながらラジオなので。聴いていましたね。生島ヒロシさんの「夜はともだち」(TBSラジオ)とか、ばんばひろふみさんの、文化放送の「セイ!ヤング」。谷村新司さんとか…そのへんかな。オールナイトニッポンは聴かなかったな。高校時代になってからはFEN。あと、高3でFヨコ(Fm yokohama 84.7)ができたので、Fヨコです。
栗原さんは東京出身ですよね。
栗: そう。でも、Fヨコが話題でしたからね。まだJ-WAVEができる前ですから。
生島さんの番組は、トーク番組ですよね。投稿しました?
栗: うーん、したかなあ。1回か2回は投稿したような覚えがありますけど。ネタのやつで、「テーマは○○」みたいな。当時はハガキですからね、かなりタイムラグありましたけど。
ありましたね。ばんばさん、谷村さんのも基本はトーク番組ですよね。
栗: 下ネタですよね。あれ、一緒にやってたかな。谷村さんとばんばさんで。その番組のムック本も買いましたよ。ばんばさん好きだったなあ。「SACHIKO」が好きで。そこから入ったのかな。
ラジカセで聴いてたんですか?
栗: 僕は中学校受験だったので。
栗原さんは立教ですよね?!
栗: そう、小学校のときから電車で毎晩塾に通わされていたんですよ。電車の中が退屈で携帯ラジオで聴いていました。
当時、携帯ラジオは珍しくないですか。
栗: そうかな、でも、トランジスタラジオで聴いてたな。小学生ですからね。記憶が錯綜してるけど、電車の中で聴いた覚えがあります。だから、番組は、夕方から夜の番組を聴いてたと思います。
FENはどういう番組を聴いていましたか?
栗: アメリカントップ40と、あと、ウォルト・ラブっていう人が、ブラコンの番組をやってたので、それとか。まあ、高校生になると、友達と情報共有できるから、友達が教えてくれたりして聴いていました。
Fヨコはどんな番組を?
栗: 「24 CLUB」です。平日夜0時からのDJミックスの番組。僕は、高校の時にディスコのDJを目指していたので。ラジオが好きというよりDJが好きなんです。「MARUI 24 CLUB」って、初のDJにフォーカスした番組で、キャプテン・ジョージさんがしゃべっていて、当時の都内の名うてのDJがミックスを作るっていう。押阪(雅彦)さんがプロデューサーだったんじゃないかな。あの人はもうFヨコにいたので。僕は、押阪さんと高校大学一緒ですから。高校のときにOSSHY(押阪さんのこと)が3年生で、僕が「ディスコのDJになりたいんです」と言ったら、押阪さんは、もうディスコのDJをやってたから、「おう、やれよやれよ」って。僕がDJになった頃には、彼は大学卒業してFヨコに入っていて、「Fヨコに入りたいんです」と言ったら「おう、入れよ入れよ」って、いつも追いかけてた時代でした。
押阪さんとは高校から一緒だったんですね。
栗: 僕の2歳上なので、僕が1年のとき彼が3年。彼が大学行っちゃって、僕が追いかけて大学へ行ったらまだ彼が大学にいてという。
栗原治久さんinterview ①



なぜディスコのDJに憧れたんですか。
栗: ディスコに行ってディスコのDJを見たときに、“あ、これ、俺がやることだな”と思いましたね。最初に、もう僕は踊っている場合じゃないな、と思って。
へえ!
栗: なんかね、すぐできると思った。できるし、やれるし、やりたいと思った。翌日から速攻で目指しましたね。
当時はレコードですよね。どんどんレコードを買い集めたんですか?
栗: そうです。でもまだ沢山は買えないから、あの、「友&愛」というレコードレンタル屋があったじゃないですか?! 松浦(勝人*AVEXの創始者)さんがはじめたやつ、上大岡の。そこのレンタルレコード屋で借りてテープに録音したりしてましたね。
DJの仕事のスタートはいつでした?
栗: 高校3年の卒業間際だから、1986年かな。高3の終わりに部活を引退したらすぐに、ディスコをまわったんです。“入れてくれ” “入れてくれ”って。ようやく入れてくれたのが、新宿の今はないワンズハートっていうワシントンホテルの地下にディスコ。しがないディスコですけど。で、そこに入れてもらって、見習いでやって…。でもそれが不思議な縁でDJ YUTAKAさんっているじゃないですか?! スクラッチで有名なあの人がいたんですよ。でも僕はその人についたんじゃなくて新崎英美さんという人についたんです。後にエイベックスの松浦さんの片腕になる人がいて、やっぱり立教の先輩だったんですよ。そのワンズハートというディスコの門を叩いたときに、最初に面談したDJの先輩がその新崎さんだったんです。「お前珍しいな、DJやりたいなんて」と言われて、「はい、やりたいんです」と言ったら、「お前学校行ってんの?どこ?」って聞かれて。「立教です」と言ったら「まじか?! 俺と一緒じゃん」みたいな。また立教の人に会うんですよ(笑)。それで「わかった入れてやる」って言われて入れてもらったんですけど。その新崎さんは、後に博報堂からエイベックスに行っちゃったんですけどね。今はご自分で事務所やってます。
立教というと、“ごきげんよう”みたいな、わりとお嬢様が集っているイメージですが。
栗: アナウンサーが多いからね。わりとアカデミックな人が多くて、古館さん、押阪さん、そのお父さん。関口宏さん、上柳昌彦さん、TBSの林正浩さん、挙げたらきりがないですよ。中村江里子さん、豊田順子さんでしょ。YMOの細野さんも。
お坊ちゃんやお嬢さんが多いんですか?
栗: 商工自営の息子、中小・零細企業の息子が多いんですよ(笑)。
栗原さんのお父さまはどういうお仕事を…
栗: 町工場の社長です。東京の江戸川区で自動車修理工場の経営をやってました。
子どもの頃から自動車を見て育ってるんですね。
栗: そうですね。だから僕、一回、大学を出ていすゞ自動車に就職してます。
それでなんですね!
栗: そう、どっちに行ってもいいように。高3の終わりからバイトでDJやって、大学時代も、夜はずっとディスコ通ってDJやってました。表の顔は、立教大学社会学部卒業いすゞ自動車就職なんです。実は、いすゞ行きながら夜DJやってたんです。内緒で。
へとへとだったんじゃないですか? 何時からやってたんですか?
栗: 好きだったから。昔は風営法の前だったから19時開店、0時閉店ですよ。
一応寝られるわけですね。すごいですね、そんなに好きだったんですね。
栗: 押阪さんに言うと多分「俺の方が好きだ」って言うと思いますけどね(笑)