The miracle stories on the Radio

松澤良昌さんinterview ②
ラジオはニューメディアも
いいとこだった…
― 大学卒業してそのまま新卒でTBSに入社されたんですか?
(松) そう。
― 技術(調整部)はどのくらいいたんですか?
(松) 10年いましたね。メインの仕事は、ラジオドラマのミキサー。あとは生放送
とか。
― 10年たって、制作に移られたんですか?
(松) いやー、あの頃は、合理化だと言って、技術も制作もみんな一緒にしようって
一緒にしちゃったわけ。だけど、うまくいかないんだよね。技術屋さんってさ、そうそう
クリエイティブな人はいないんだよね。で、その後、もういっぺん、部は元にもどった
わけ。でも俺だけは戻らなくて、制作に来ちゃったの。ラジオ東京(現TBS)は昭和26年12月(1951年)スタートなの。テレビは昭和30年(1955年)の4月1日。だから、僕と一緒に技術に入った連中もね、ほとんどがテレビに行っちゃったね、ラジオに残ったのは3人くらいだけ。で、その後、なにかで部長とケンカして、「おい、松澤くん、テレビに行かないか」と言われたんだよね。僕ね「目が悪くてよく見えないんです」と言ったの。「じゃあ、お前、車の運転なんかやめなきゃだめだ」、「はい、もうやめるつもりです」と言ってすぐに車売っちゃった。
― 初めてディレクターとして作った番組は覚えていらっしゃいますか?
(松) なんだろうね。初めて作ったのはあんまり覚えてないな。…あ、わかった!
『おはよう東京』(1965年4月放送開始)という生ワイド番組があったわけ。朝7時から
9時かな。そのディレクターやってましたよ。で、当時、長嶋茂夫さんの息子が生まれたのね。その時の長嶋さんのインタビュー、僕、今でも持ってますよ。
― ミキサーからディレクターになって、とくに壁もなく、するーっといったんですか?
(松) だって、僕、ミキサー時代ね、どれほど、ディレクターを叱り飛ばしてたかわか
らない。「なんだ!NGだったらすぐ止めてもういっぺん録音し直さなきゃだめじゃねぇか」って。「止めないで、ずらずらやってどうするんだ」とかね。嫌なミキサーでしたね、がたがた言って。
― ミキサーをやりながらも、制作の準備ができてたってことですね。
(松) そう、僕と同期の中村という友人が、時々ね、ドキュメントというか、『ラジオ風土記』なんて番組があって、その構成を「まっちゃん、ちょっとやってくんない?」って言われて「軽井沢」とか「武蔵野」とか2、3本作ったの。当時、ミキサーだったけど。ナレーションがあって、効果音を入れるような番組。今、聴いても、よくできてるなあと思うよ。
― ラジオ業界に入って驚いたことはありますか?
(松) ラジオ東京(現TBSラジオ)に入ったころ、すごいプロデューサー、ディレクターがいるなあ、優秀な人がずいぶんいるなあと思った。というのは、初めての民間のラジオでしょ。新聞社を辞めて来たり、出版社を辞めて来たり、素晴らしい人がいっぱいいた。それから落語とか、色ものの世界の人で、とてもかなわないなと思うような人がいっぱいいた。
― 当時は新しく“ラジオ東京”ができて、いろんなところから、中途というか辞めて入ってきたんですね。
(松) そう。ニューメディアもいいとこだった。
― これまでで“これは面白い試みだったな”という心に残っている番組はありますか?
(松) 一番面白かったのは、愛川欽也の『それいけ!歌謡曲』(1970年放送開始)。
愛川欽也さんのすっとぼけの面白さだよね。そこぬけの明るさと面白いさ。だって台本が
一切ないんだもの。3時間、全部フリートーク。
― どうやってやったんですか?
(松) 例えば、午後1時半から2時までは毎日がベスト5という音楽番組なの。ベスト5
だけが流れるわけ。それから2時台になんかあってね。3時台が、久米宏と平野レミの
「ミュージック・キャラバン」。ジュークボックスを積んだ車が、一週間、あるスーパーに行って、そこから生放送するわけ。このとき、ジュークボックスのボタンを押すと、「男が出るか、女が出るか、どっちの歌手が出ますか?」とお客さんに聞くの、それだけなんだよ。単純なんだから。で、久米さんが「押しました!」と言うと、平野レミが、
ある日突然ね、「男が出るか~、女が出るか~」って叫びだしたわけ。で、「出るか~?あ、出ました~!」ってね。でワンコーラス、曲を聴いて、“じゃあ、あなた、いくらあげます”。そんな番組なのよ。
― 番組のリスナーが、男性歌手か女性歌手かをあてるんですか?
(松) いや、その場に来ているお客さん。で、それがね…
(ここで、突如、松澤さんのTBSラジオの後輩である白石氏が乱入)
(白) 僕はとってもこの人を尊敬しています。今の話も含めて、いくつか画期的なこと
をやったの。それまでラジオでやらなかったこと。松澤さんはいろんなハチャメチャなことをやった。それって一回やると、「あ、こんなもん」ってみんなができることなの。でも、すべての歴史がそうだけど、第一歩を踏み出すってものすごく勇気があることですよ。この方はすごい新しいトライをしたと思う。
(松) 好きなことやっただけですよ。
(白) 今の「男が出るか、女が出るか」、多分わかってないと思うけど、ジュークボックスがあって、ポンと押して、男が歌っているか、女が歌っているかをあてるの。本当にバカみたいでしょ。コインの表か裏かみたいな。たったそれだけのことを、ジュークボックスを車に積んで、いろんな団地とか倉庫とかいろんなところをまわっていってそれをやらせるでしょ。そのあおりをするのが、あの久米さんと平野レミさん。その場がばーっと盛り上がる。聴いているリスナーにもそれがそのまま伝わったの。つまり、そうやって盛り上げることをぱっと考える。でも、僕は、松澤さんが一晩寝ずに考えたなんて思っていません。たぶん思いつきだと思う。でも、それを実行し実現したのがすごいと思う。
(松) 「男が出るか、女が出るか」の話なんだけどね、スポンサーが三井物産食品グループだったかな。そこでえらい評判が悪いわけ。“なんだかよくわかんない番組だ”っていってね。で、食品グループの会社の人が集まって、プロデューサーを呼んで話聞こうじゃないか、となったんだよ。それで、営業に言われて、行ったわけ。そうしたらね、俺が会議室に入ったらね、「あ」という声がどこかで聞こえたの。俺がそこで「しばらくあったかく見てください」って言ったらね、「わかりました」と収まっちゃったわけ。後で、営業が来て、「松澤さん、不思議ですね。松澤さんが来る前ね、○○カレーの人が、「とんでもない番組だ」って吠えまくってたんですよ」と言うんだよね。「松澤さんが来た瞬間、あっと声を出したきり、なんにも言いませんでしたよ」って。
― 後輩ですか?(笑)
(松) 早稲田の放研(放送研究会)のね。俺がキャップやってた時、一年坊主で入ってきた人だったの(笑)。それから一週間後に、週刊文春が、レミのことをものすごい褒めて、グラビアページを作ったわけ。レミのお父さんというのは文学者だからね。平野威馬雄という。それから、風向きががらっと変わってね、みんな、面白いって(笑)。そんなもんなんですよね。
― 事前に「○○スーパーでやりますよー」と告知をして、一週間通しで、同じ場所で
やったんですか?
(松) そう同じ場所で。
― それで来たお客さんにどっちが出るか当ててもらう…。一人のお客さんですか?
(松) 4、5人できるの。30分番組だから。
― なるほど!それを繰り返して?
(松) そう。それから、一番最後はね、一万円当たるクイズがあるわけ。「このボタン10個の中に“知床旅情”が入っています。どれだと思いますか?押してください」と。知床旅情がぴしっと出るとね、一万円もらえるの。
― やっぱり久米さんと平野レミさんが盛り上げるのが上手だったんですか?
(白) うまいよ! そりゃ、そうですよ。
(松) でも、久米さんに言わせるとね、彼のいわゆるラジオ歴のなかで、あそこだけは
消し去りたいって(笑)
この「ミュージック・キャラバン」が入っていた『それいけ!歌謡曲』の番組パーソナリティ、愛川欽也さんについて、もう少しお話聞かせて頂けますか?
(松) 愛川欽也の番組がスタートした頃は、テレビの連中が、車の中でラジオを聴き
ながら出社してたのね。ずいぶんアイデアを盗まれたものがあるんじゃないかな。今、
リスナーからいろいろメッセージもらっているじゃない!? あれ、愛川欽也から始まったんですよ。“一口伝言(ひとくちでんごん)”というので始めたの。
― “一口伝言”!?
(松) そう。小さなメッセージだね。まず、ロイヤルリスナーつまり熱心なリスナー、100人か200人に、事前に“ひとくち伝言というコーナーを始めます。協力してください”とぱーっと事前に知らせてからスタートしたの。だから、最初から来ましたよ、“一口伝言”。「うちはお寺です。4才になる息子が、今、本堂で木魚を叩いています!」なんて楽しい伝言が沢山来ました。その頃は、電話のオペレーターが聞き取って書き直すから、内容がわかりやすいの。今、メールじゃない。わけのわからない文章が多いんだよね。だから、ずいぶん質が落ちているんでしょうね。
― それまで、こういうのはなかったんですか?
(松) なかった。全くなかった。たぶん、愛川欽也さんの番組が最初だったと思うよ。
なぜなかったかというと、それまでスタジオにそういう電話器がいっぱいあるような施設がないの。TBSは「子ども電話相談室」があったでしょ。あれがあったから簡単だった。
― 954キャスターも、松澤さんが始めたんですか?
(松) 使い始めは僕だね。僕が制作にいた頃、編成が作ってね、「まっちゃん、使ってよ」と言うの。「じゃあ、使おう」というので使った。一台には「ジュークボックスを入れたワゴンを作ってくれ」と言ってね。
― 他にもいっぱいあるんでしょうね。松澤さんから始まったもの。
(松) あるかなー。外からの中継をメインの番組にするなんてことは、あんまりなかったよね。蝮(毒蝮三太夫)さんみたいに。外からの中継の番組をなぜ大切にするかって、そこに、新入りのディレクターが付いていくとね、リスナーの顔がわかるんですよ。それまでは、そんな番組はなかったからさ。自分で勝手に思った自分の好きな番組を作ってたわけ。そのうちに「こんな番組作っても、この時間、あんな顔をしたリスナーには伝わらないな」ということがわかってくるわけ。リスナーの顔がわかる。僕は、生ワイドいっぱい作ったけど、必ずレポーターを使うわけ。藤田くん(FMヨコハマ THE BREEZEのレポーター)であり、どこでも使うわけ。藤田くんとかは本当のリスナーの顔がわかってるじゃない。だから、変にかっこつけた番組を作ってもあんなの聞かないよと思ってるわけ。だから、若手の教育のためにも、そういう外回りがものすごくプラスになる。でも、FM局ってあんまりそんなことできないんだよね。FMって、自分の好きな番組を作れると思ってるから。ディレクターは自分の好きな番組を作っちゃいけないんです。リスナーの好きな番組を作らないと。…ということは、リスナーの本当の生き様がわからないとだめなわけ。いかに自分をリスナーに近づけるかということなんですよ。だから、かっこばかりつけちゃいけないし、“ある種の音楽ばっかり好き”なんてもっとダメ。だから音楽が好き
でディレクターになった人は大成しないね。人のつきあいとか、人と話すのが好きな人が大成するよ。