The miracle stories on the Radio
西向幸三さんinterview ②
番組スタート時は
めちゃくちゃクレームが
来ました(笑)

今の帯番組「ゴールデンアワー」が始まる前も、帯番組はやってらしたんですか?
西向: これがもう一番悩みどころだったんですけど。ラジオ局の社員になるってことは、制作をやるっていうことなんですよね。フリーのしゃべり手さんはたくさんいますけど、フリーの作り手って沖縄はまずいないので、やはりそれは社員がやらなければいけない。どこも大体そうだと思うし、FM沖縄の現状もまさにそうだったので。制作ができる。もちろんアナウンサーとして採り、ニュースも読ませるけれど、基本は制作もやらなきゃいけないという。悩んだのはそこなんですよ、やっぱり。しゃべることが好きでこの仕事やってたから、制作にまわるのはどうだろうと思ったんですけどね。当時つきあってた子がいて、結婚も考えてたので社員になっとこうかなーと(笑)。社員になった途端ふられましたけどね。ま、人生そんなものですけど。で、入った以上はやっぱり制作をやらなければいけない。制作はなんとなーく見ては知っているものの、一からやらなければいけないですよね。またAMと違って、FM局の制作ってもっと音楽に特化した部分があるので、それも含めてもう一回一から勉強ということで。入社して、一、二年は表でもしゃべって、帯番組もやってましたけど、どんどん制作にスライドにしていって、そのうち、完全に制作側にまわったという。
そうなんですか~!え~っ?!
西向: そうなんですよ。で、裏方で音楽フェスをやってみたりとか、いろんな番組を作ってはつぶし作ってはつぶし、試行錯誤の(笑)。ずっと夜帯を任されていたので。皆さんもご存知の通り、10代の掘り起こしっていうことが大事だし、若い感覚があるという人間は、そこでトライ&エラーをするしかない。ラジオの可能性を考えながらいろんなものを作ってチャレンジはしていました。で、裏方の仕事がもう長くなって。5分ものとか箱ものとかはやってましたけど。帯っていうのは、だから久しくやってなかったですね。ずっと制作です。
それが20代後半から30代…?
西向: そうですね。辞めたかったですね、毎日。あ~、もういつフリーになろうかと思ってて。きっついなぁと思って。当時、本当に人が足りないときがあって、残業もすごい多いときがあって。なんでこんな苦しい思いをしてやってるんだろう。なかなか自分の作りたい番組も明確に見えてこないし。ま、トライ&エラーは繰り返してましたけど。で、音楽フェスとかって責任者になったりするとね、いろいろお金の問題もあったりね、プレッシャーもあるし。そういうプレッシャーと闘いながら、辞めてやる、辞めてやると思いながら、もう少しがんばったらなにか見えるんじゃないか。あと3年まずやってみよう、5年やってみよう、じゃあ10年やったらなにか見えてくるかもしれない。じゃあ、まず10年かな、一区切り。とりあえず10年、制作の仕事をやったらなにか見えるかもしれないって。漠然としたものですけどね。やり続けてみようかなと思って、やってたんです。
そこから、ゴールデンアワーになったんですか?
西向: そうですね。そこから昼間の番組になったんですけど、当時、FM沖縄は、そこもバイリンガルがやっていた音楽番組があって、開局当時から20年以上やっていた「サザンステーション」という人気番組があって。変な話、私もその番組に憧れてFMで仕事したいなという部分があったんですよ。音楽も好きだったし。だからそこに漠然とした憧れがあって入って。でも他局がその時間帯にトーク番組を中心として非常に元気が出てきてですね、食われる勢いというか…、まずいぞと。このお昼帯、どうにかしなきゃいけないと。僕も好きな番組ですけど、20年以上たってなにがしかの改革が必要なんだろうなと思っていたところなんです。で、上司に、夜から昼のここを作りなさい、というのがあって、それで立ち上げたのが2010年のゴールデンアワーですね。
ポッドキャストだけで聴いていると、あ、こういう番組で、こういうテイストで、きっと前後もそういう感じかなと思って聴くんですけど、沖縄に来て、その前後を聴くと、おお~っといきなり急にカラーが変わった!という感じがするので、かなり当時、冒険だったんじゃないかと思うんですけど…。
西向: そうなんです、滅茶苦茶クレーム来ましたよ(長く大きな笑い声を響かせる西向さん)。ただ、あの当時思っていたことは、やっぱりおかげさまで開局して20年、本当にみんなから愛される”FM沖縄”という人気もあって数字も取れてて、愛され続けていたけれども、ここで何かを変えなきゃいけない、という。他局の台頭ということもあったんですが、やっぱりそれは中でもみんな思っていた、感じていたことなので、どこかで若返りというか、新しいことをやらなければどうしようもないということはみんなわかっていて。それは僕もずっと感じていたので、話が来たとき「あー、わかりました」と。
とにかくやりたかったことは、今あるラジオの既存の常識を全部ぶち壊したかったんですよ。他局が勢いがあるといえども、もっと新しいことにチャレンジできるんじゃないかって。それは既成概念をとっぱらって、昼にこんな番組をやるか?!という。おっしゃる通り、昼には本当にそぐわない。下ネタ連発だし、うるさいし。ただそれははじめに意図していたわけではなくて。ただずっと言ってたことだし、企画書にも書いてるんですけども、もっとラジオが元気だった頃のパワーというか、もっと本当はラジカルでエモーショナルで、可能性がすごく無限に広がる媒体だったはずなのに、いつしかテレビに押されて、元気をなくして、自分たちで元気をなくしていって、自主規制がどんどんはじまって、どんどんどんどん小っちゃくなっていっちゃった。自分が言うのもおこがましいですけど、たくさん先輩いる中でおこがましいですが。とにかく、この状況をぶっ壊さなくちゃいけないと思っていて、で、もう好き勝手やると。昭和のあのときの元気な、私がぎりぎりですけど、スネークマンショーも聴いている世代ですし、ああいうラジオの可能性っていうのも別にあって。ちょうどテレビの80年代の黄金世代を過ごしているので。ま、ドリフからひょうきん族というお笑いのエンターテインメントのあの時代も感じているので、そういったいいとこどり?ラジオもテレビも全部いいとこどりして、ラジオっていう常識にとらわれないで、ソーゾーリョクに働きかけるラジオを作りたかったんですよ。
実はこの話を振られたときに、私は10年以上夜をやっていて、なかなか結果が出なかったので新しい知恵もほしいなと思って。同世代の営業がいたんですけど、まったく私と同じ学年で。その彼が作り手としてのセンスがすごくあったので「この人と一緒に仕事させてください」というのをまずは上司に言いました。で、制作、営業という垣根を越えて、彼と二人で。で、彼と一緒に考えたのがゴールデンアワー。そこまでハチャメチャにやったら、FM沖縄のイメージじゃないので、絶対お叱りがくるとわかっていたから、お叱りがきたときに「いや、これはFM沖縄じゃないんですよ。ラジオの中のラジオ局”ゴールデンラジオ放送局”がFM沖縄を間借りしてやっている番組なんですよ、大目に見てね」というエクスキューズをちゃかして作ってやったのがこのコンセプトです。どうせラジオ局にするんだったら、じゃあ俺、局長だね、リスナーは社員だね、という話をしました。たださっきお話したように、10年以上、帯のメインのところから外れているので、今更、西向がしゃべってどうなる、という意見も会社内からありました。それもそうね、客観的に考えて、ディレクターとしての判断として。であれば、ここまで思い切ってやるからには、本当に半年もたないかもな、という思いがあったので、その後の財産になるように若い人を起用しようという考えに至り、そのときに5人、新しい子たちを採用して、月火水木金、全部別々の子でやりました。で、私が局長で、彼らが社員で、リスナー社員がいて、会社の態で、みんなで作り上げていく…そういう番組になりました。